東高洲新地
ひがしたかすしんち
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
新城屋新田の東島地先、碇の水尾と左門殿川の間に開発された新田。尼崎藩領。西高洲新地とともに明和年間(1764~1772)のころ尼崎藩が開発に着手したが、1744年(安永3)の高潮被害を受け東西高洲新地ともに荒地と化した。そこで藩は尼崎惣町に下げ渡して新畑としての開発を命じ、1777年には東西あわせて約50町歩が高入れされたが、新田の維持に多大の経費を要したため、藩では惣町から中在家町・泉屋利兵衛はじめ身分相応の者10名を選んで地親を引き受けさせた。1791年(寛政3)ふたたび潮入りとなり、地親たちは西高洲新地を荒れたまま放置して東高洲新地を先に再開発することとした。しかし、その後もたびたび高潮被害を受け、1801年(享和元)には東高洲新地全域が荒場となり、1806年(文化3)になっても18町歩が再開発されただけであった。1851年(嘉永4)には地先に大高洲新田が開発・高入れされた。近世には稲荷神社があった。
1880年(明治13)に大洲村の一部となり、1930年(昭和5)に町名改正で大洲村が消滅、東高洲町となった。昭和期に入ると大阪曹達などの工場が建設され、臨海工業地帯の一部となっていった。