松平忠栄

まつだいらただなが
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1804年(文化元)12月3日 - 1869年(明治2)9月7日

  尼崎藩松平氏6代目藩主。3代目藩主松平忠告の末子。母は摂州西成郡大道村郷士沢田佐平太の女〔むすめ〕寿免。1829年(文政12)10月2日、甥の松平忠誨の遺領を継いだ。藩の財政危機を立て直すために、1831年(天保2)大坂の商人石田小右衛門を登用した。1845年(弘化2)小西新右衛門・笹屋勘左衛門による借財整理に踏み切り、月々仕送りを受けての生活となった。1837年(天保8)大塩平八郎の乱に続き領村内不穏の気配を感じ、目安箱を置いて民意を聞こうとした。1830年徂徠学派の中谷雲漢を招いて聴講し、1840年自著の『貽厥編〔いけつへん〕』『喫茶問答〔きっさもんどう〕』を刊行した。狂歌を好み、1862年(文久2)隠居後は進んで庶民に交わった。尼崎で死去。66歳。法号は豊安院徳誉信沢道佚大居士。

執筆者: 山下幸子

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