栗山
くりやま
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
立花地区の大字。市域中央部やや北西、庄下川の上流に位置する。弥生~平安時代の栗山庄下川遺跡がある。中世には生島荘の荘域であった。地名は在地武士の栗山氏に由来すると考えられる。史料上の初見と考えられるには1568年(永禄11)「ルイス・フロイス書簡」でcuriamaと記されているが、これは島下郡郡山村(現茨木市)を指すという説もある。
近世初期には生島村に属し、1615年(元和元)建部政長の領地となり、1617年の戸田氏鉄入部以降は尼崎藩領であった。1635年(寛永12)青山氏(幸成系)が尼崎藩に入封した際に生島村の村切りが行なわれ、上之島・栗山・大西・三反田の4か村に分かれたものと考えられる。村高は「元禄郷帳」「天保郷帳」に494.017石とある。また、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数43軒、人数268人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には27軒、105人とある。生島井組に属した。氏神は生島神社(近世には弁財天社)で、生島4か村の惣社でもあり、1914年(大正3)に上之島の須佐男神社、1915年に大西の熊野神社・三反田の応神天皇社を合祀。
1889年(明治22)以降は立花村、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1970~1991年(平成3)の住居表示により栗山および、南塚口の一部となったほか、一部が上ノ島町・三反田町・大西町・立花町・名神町となった。