松平忠興

まつだいらただおき
桜井忠興より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1848年(弘化5)正月8日 - 1895年(明治28)4月29日

  尼崎藩松平氏7代目藩主1861年(文久元)8月6日、父松平忠栄の隠居により若年で家督を継いだ。父と同じく江戸のフランス人宿寺の警衛を命じられ、1863年5月尼崎に帰ってからは十津川一揆や禁門の変などにさいし大坂城代指揮下に守備兵を派遣した。1865年(慶応元)の第2次長州征伐進発には、いちはやく参加を申し出ている。維新にさいしては王政復古の布告そうそうに1868年正月6日藩の朝廷帰順が認められ、2月朝廷の松平姓改姓命令に従って桜井(本貫の地名)と改姓した。1869年(明治2)6月20日藩は版籍奉還を勅許され、忠興は尼崎藩知事に任命されたが、1871年7月15日廃藩置県により藩知事を免ぜられ、9月東京に立った。1875年には大神神社〔おおみわじんじゃ〕(現奈良県桜井市)の大宮司となり、後述する博愛社創設のため上京するまでその職を務めた。1895年岡田山別邸(現西宮市岡田山)で死去、48歳。深正院に葬られた。

執筆者: 地域研究史料館

  1877年(明治10)2月、西南戦争に際して救護組織の必要性を佐野常民が唱えたことを受けて、忠興は大給恒〔おぎゅうゆずる〕、松平乗承〔のりつぐ〕(元三河国西尾藩主松平乗全養子〕、松平信正(元丹波亀山藩主)らとともに博愛社(日本赤十字社の前身)を設立した。忠興は大神神社大宮司の職を辞して上京し、博愛社仮事務所として東京麹町富士見町四丁目の屋敷を提供し、資金1,000円を寄付、さらに博愛社の命を受けて自費で九州各地に赴き、戦況や負傷者の救護状況を視察したと伝えられる。博愛社は1887年に日本赤十字社と改称した。

執筆者: apedia編集部

参考文献

  • 日本赤十字社兵庫県支部『博愛社誕生-最後の尼崎藩主桜井忠興-』 1988
  • 田中敦「桜井忠興事績関係史料」『地域史研究』第114号 2014

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