椋橋荘

くらはしのしょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  猪名川神崎川の合流点、現在の豊中市西南部から尼崎市の戸之内を中心とする地域に位置した荘園。倉橋荘とも書く。1048年(永承3)、関白藤原頼通の高野山参詣のさい、本荘から30名の人夫がでて淀川下りの水手〔かこ〕をつとめており、このときまでに摂関家領になっていたことがわかる。このころ荘園の中心はまだ東の豊中市側にあり、その地理的条件から農業を専業とする住人は少なく、交通運輸・漁業などに従事する者が多かった。しかし、12世紀にはいると、開発が急速にすすんで川を越えて尼崎市側へも荘域が拡大した。その結果、12世紀中葉には、椋橋東荘(豊中市側)と椋橋西荘(尼崎市側)との二つの荘園に分立するにいたった。椋橋東荘は、頼通のあと師実・忠実・忠通をへて近衛家に渡り、さらに鷹司家に相伝される。しかし、南北朝以降、その支配権は次第に衰退し、1421年(応永28)に鷹司家から東寺に寄進され東寺領となった。なお、後鳥羽上皇の寵姫亀菊の所領で、その地頭職改易問題が承久の乱の勃発の重要な契機となって有名な倉橋荘(椋橋荘)も、椋橋東荘と同じ地域に存在した別の荘園とみられるが詳細は不明である。

執筆者: 田中文英

参考文献

  • 『大阪府史』第3巻 1979
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