椋橋西荘
くらはしにしのしょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
12世紀中葉に、摂関家領椋橋荘が椋橋東荘と椋橋西荘に分立してできた荘園。猪名川と神崎川の合流点、現在の尼崎市戸之内付近に位置した。椋橋荘は、元来、その地理的条件からして耕地の少ない荘園であったが、12世紀にはいり、住人による積極的な開発がすすみ、荘域が拡大した結果、東・西両荘に分立するにいたった。1156年(久寿3)に椋橋荘住人が橘御園・長洲荘の住人とともに東大寺領猪名荘の田地を耕作しながら地子を滞納した事件、1162年(応保2)には椋橋西荘の荘官と猪名荘下司とのあいだで田地の帰属をめぐる相論などが惹起されており、いずれも荘園の発達を物語っている。その後当荘は、東荘とともに近衛家に伝えられ、1253年(建長5)の近衛家所領目録に請所とされているが、鎌倉末期には近衛家の手を離れたようである。1336年(建武3)、足利尊氏が椋橋荘を東大寺に寄進し、東大寺領椋橋荘が出現するが、この荘を椋橋西荘とみる見解もある。しかし、その東大寺の支配も応仁の乱によって完全に消滅する。