尼崎藩から西宮・兵庫津の2町と灘筋村々を公収した明和6年の上知について、33年後の1802年(享和2)、幕府小普請組植崎九八郎政由〔まさより〕が幕府を非難する上書を出している。公収によって尼崎藩は豊な領知を失い、城は裸城同然となった。これによって大坂の守りは果たせなくなり、幕府が負担することになった西宮・兵庫の駅務や外国勢力に対する海上警護、朝鮮通信使来聘時の諸役は勤め切れなくなった。このように批判して幕府に上知令の撤回を求めたのである。この上書によって植崎は幕政批判のかどで処罰をうけた。
執筆者: 八木哲浩
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