検地
けんち
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
市域で確認される最古の検地は、1594年(文禄3)豊臣秀吉によって全国で統一的に行なわれた太閤検地である。市域では船越景直や片桐且元らを奉行として、村々の領主の別なく一円に実施された。この検地により1村単位に石高と高請百姓が決まり、貢租米徴収の基礎ができた。1609年(慶長14)の椎堂村その他での検地は、関ヶ原の役後に畿内の一大名に転落した豊臣氏が年貢増微のために実施した。1677年(延宝5)から畿内5か国その他幕府領について太閤検地改訂のための検地が行なわれ、市域では園田・小田地区の11村のうち幕府直領部分だけについて実施された。尼崎藩領の村々では、青山氏(幸成系)時代の1643年(寛永20)ころから20年ほどの間に検地が行なわれた。青山幸利の弟たちへの分知にともなう処理のため、6割ていどの村々で村高が改訂され、約4,000石が本高に繰り入れられた。幕府の延宝検地、尼崎藩の検地をうけなかった村々では、江戸時代をつうじて文禄・慶長検地の高が踏襲されたのである。