楠木正儀
くすのきまさのり
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
生没年未詳
楠木正成の3男、河内守、中務大輔、参議などを歴任。1348年(正平3・貞和4)、兄正行の死後、楠木氏の棟梁として河内・和泉・摂津の国主の地位につき、南朝方の軍事力の中心として活躍した。1361年(正平16・康安元)には一時京都を占領するなど、いくどか京都奪回戦を敢行する一方、南北両朝の和平工作をすすめたが失敗し、1369年(正平24・応安2)幕府方に降った。しかし、1382年(弘和2・永徳2)には再び南朝方に帰参し、その直後、幕府方に大敗した。その間、1352年(正平7・文和元)3月に神崎で赤松光範と戦ったのをはじめ、尼崎から西宮方面を転戦し、1361年9月に摂津守護佐々木氏の軍を撃破したときには、尼崎の大覚寺に対して軍勢の狼藉をとどめる禁制をだしている。翌年8月にも、尼崎の浄(常)光寺に本拠をすえる佐々木氏の守護代箕浦次郎左衛門俊定と戦って破っている。現在浄光寺に所蔵されている同寺の「縁起図」には、楠木正儀の浄光寺合戦の様子が描かれているが、これは桃山末期の作である。
参考文献
- 佐藤進一『南北朝の動乱』 1965 中央公論社