橘御園
たちばなのみその
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
現在の尼崎市の立花・久々知・生島付近から、北は伊丹市域を中心として猪名川沿いに川西市・宝塚市の一部にまでおよぶ広大な地域に散在した摂関家の所領。もとは、園地(畠)を中核に摂関家へ柑橘を貢納する果樹園として成立したものとみられ、その領主摂関家への尊称から御園ともいわれた。11世紀中葉に、藤原頼通領として現われるのが初見。住人のなかに摂関家の寄人・散所雑色・舎人などの身分をもった者が多く、かつ散在的な存在形態をとる点などから、この御園は、当初、周辺住人が国司の課役などを免れるため、屋敷や園地を摂関家に寄進して柑橘を納入するかわりに、これらの身分を獲得することによって成立したものと考えられる。また、住人のなかには、近隣の荘園の田地を請負って耕作する者が多数存在したため、しばしば争いや相論がおこった。平安末期には、東大寺領猪名荘の田地を耕作しながら地子を納入しない事件や、当御園と猪名荘・椋橋西荘とのあいだで入り組んだ耕地をめぐる相論などが惹起されており、次第に御園の荘園化が進展しつつあったことを示している。鎌倉中期に、当御園の領家職が近衛家から延暦寺の浄土寺門跡に寄進され、ついで浄土寺門跡はその年貢の一部を勝尾寺に寄進した。この勝尾寺への寄進米を負担した地域のなかに、尼崎市域の難波村・生島村などの名が見える。しかし、南北朝期以降、在地諸勢力、とくに伊丹氏・森本氏らの武士勢力が台頭して、御園の実質的な支配権を掌握するようになり、室町後期には近衛家や浄土寺門跡の支配は有名無実化するにいたった。
参考文献
- 『伊丹市史』第1巻 1971