武庫尋常高等小学校差別事件
むこじんじょうこうとうしょうがっこうさべつじけん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1918年(大正7)1月22日、遅刻をした武庫村守部新田の子供6人と地区外の子供1人に対し、校長が被差別部落に対する賤称語を用い差別発言をしたことに端を発した事件。憤慨した地区の子供は、既に登校していた地区の子供達と集団下校し、以後4、5日の同盟休校に入った。一方事情を聞いた地区の人達は「とにかく校長に訳を聞こう」と、翌23日約100人が学校に対し抗議行動を行なった。しかし、校長以下職員は武庫村役場へ逃げ込み、話し合いもできないまま帰村し、事後の対策を検討していた所へ、所轄の西宮警察署によって70数人が検束され、5、6日の取調べが続いた。警察は地区の役員に対し、主謀者を出せば他の者を帰宅させると言うが、地区側は「非は学校側にある」として膠着状態が続いた。しかし、結局差別発言を受けた子供達の親が中心になり、5人が主謀者として名乗り出、裁判の結果、懲役2~3か月の刑を受けた。学校側は何の責任も問われなかった。この5人の中には、事件当日病臥中で、何の関係もない人がいたという。この事件は新聞等でも大きく報道された。その後、米騒動への部落民の参加などによって、部落の人々のエネルギーを恐れた政府が部落改善事業の予算化を行なうが、こういった国の政策にも少なからず影響を与えたといえる。
参考文献
- 『尼崎部落解放史』本編 1988 尼崎同和問題啓発促進協会