武庫川原の立ち退き問題
むこがわらのたちのきもんだい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
阪神国道から阪神本線にかけての武庫川河川敷には、1961年(昭和36)まで空襲罹災者や生活困窮者などが居住するバラックが見られ、1961年には約1,200人が居住していた。約半数の世帯の生業がばた屋(ゴミ・廃品回収業)で、1世帯あたりの月収1万円強、市内勤労者世帯平均の約3分の1であった。住居は角材・板・トタンや防水紙を利用した掘立小屋で井戸と便所も共同、生活環境・衛生状態は劣悪であった。県は1958年から立ち退き勧告を繰り返し、1961年4月には尼崎・西宮・伊丹・宝塚市の武庫川河川敷住人638世帯2,127人(うち尼崎市399世帯1,197人)に対して立ち退き・建物除去命令を発した。理由は不法占拠、洪水の危険性、東京オリンピックに向けた美観整備であった。住民側は家と生活を守る会や武庫川立退対策連合会を結成し、一部労組や共産党の支援を受けて反対運動を繰り広げた。伊丹・宝塚両市では市の集団移住地のあっせんにより立ち退いたが、尼崎市では1961年7月28日強制執行、半日でバラック群は解体除去された。住民には見舞金(3人家族の場合5万円)が支払われた程度で、今北と守部に県が用意したテントで越年する家族もあった。