水論
近世において、尼崎市域村々に発生した水論=用水争論は、大川(武庫川、猪名川、藻川)からの取水などのかかわる井組間の争論と、井組内での水の配分および井親権に関する争論であった。ときには死傷者を出す熾烈な乱闘に発展し、責任者である庄屋層の処罰がおこなわれた。領主違いの村々にわたる水論は幕府の奉行所による裁定が必要であった。
井組間の争論として武庫川水系では、富松井組と西岸の百間樋井組との分水争論が戦国時代の永禄年間(1558~1570)から知られ、これは17世紀半ばまで続いている。生島井組とすぐ下流に取樋口が隣接していた武庫井組との場合、1647年(正保4)渇水時に細った水筋から生島井組の取樋口までの瀬掘りをめぐって争論した例などもあるが、武庫川水系では18世紀半ば以降、井組間の大きな水論は見られなくなっている。1928年(昭和3)県の武庫川改修工事に付帯して六樋合併の工事が完了し、武庫川六樋合併普通水利組合が発足した。
猪名川水系では、1592年(天正20)大井組が藻川口に新堰を築いたことから三平井組と武器をもっての大乱闘になり、6人の即死者が出、その結果、庄屋7人が斬罪になった。また、1609年(寛文9)に大井組の新堰をめぐって水論が生じているが、江戸時代には大井組と三平井組および猪名川筋村々との水論が繰り返し生じた。近代になっても、1899年(明治32)兵庫県の猪名川筋堤防改修工事は大井・三平井両組の反対で設計を変更し、1907年(明治40)大井組の新堰をめぐって川筋村々が対立、1924年(大正13)上流の九名井組ほかと下流の大井組村々などとの争論がおこっている。このように猪名川・藻川筋での井組間の水争いが容易に決着せず、近代まで持ち越されたのは、両川に流入する水量が定まらなかったことに原因する。
井組内での水論は、瓦宮村と若王寺村が1672年(寛文12)に干ばつ時の取水について分水法か番水法かで争った大井組の例をはじめ、三平井・三ツ又井、西明寺井の村々においても上流と下流村々の間で18世紀半ばから頻発し、1910年代に至ってもなお起こっていた。井親争論では、富松井組内で1726年(享保11)に井親の野間・友行村が井子4か村に水を流さなかったことから始まった争論が1824年(文政7)になっても和談に至らなかった例や、生島井組の井親争論のように幕末まで争論をくり返した例もあるが、他の井組のほとんどが今北村・大島井組下三か村井親争論のように18世紀末ころにはには終息した。江戸時代に入る以前に結成された井組では井親の力が強く、井組内の争論も早く収まったとみられている。
参考文献
- 今井林太郎・八木哲浩『封建社会の農村構造』 1955 有斐閣
- 岡田幸太郎編『百間樋と五十年』 1964 百間樋井組
- 山下幸子・池田徳誠『大井の歴史』 1973 大井組顕彰碑建設実行委員会
- 池田徳誠『三ツ又井組考』 1982 三ツ又井組顕彰碑建設実行委員会
- 池田徳誠『六樋』 1978 尼崎市武庫川六樋合併五〇周年記念実行委員会