江村剛斎
えむらごうさい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
名は宗珉、全庵と号した。藤原惺窩〔せいか〕の高弟那波活所〔かっしょ〕に儒学を学び、その学才を認められ、尼崎藩主青山幸成に客分として迎えられた。その時期や待遇については明らかでないが、1635年(寛永12)幸成の尼崎入封の時とする説がある。のち病に托して致仕し、京都で塾を開いた。剛斎の父専斎(宗具)は詩歌の道にすぐれ、聞香にもその名が聞こえた。これらを通じて、細川幽斎・木下長嘯子・文殊院応昌、さらに青山幸成らとの交際があり、息子剛斎の仕官に専斎が何らかの関わりをもったことが察せられる。剛斎のあと、江村如琢・江村毅庵(青甸〔せいてん〕)らが青山氏に仕官している。如琢については「扶持人儒者弐百石五人扶持(京都)新在家中之町青山播磨守内江村恕縁」(元禄覚書)により、京都に在住して青山幸督に仕官したことが明らかである。剛斎は『全庵医方』『剛斎残稿』などの著作のほか、藩主幸成の歌集も選述している。
参考文献
- 岡本静心『尼崎藩学史』 1954 尼崎市教育委員会・尼崎藩学史出版協会