池田恒興
いけだつねおき
(池田信輝より転送)
(池田信輝より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
信輝と記す史料もある。1579年(天正7)9月織田信長にそむいた荒木村重の一族を子の之助・輝政と攻め、1580年12月華熊城を攻め落とした。村重の反乱終局のあと、その支配地であった大坂・有岡・尼崎・華熊の4城を含む摂津一円を与えられた。1582年(天正10)本能寺の変のときには、急遽備中から引き返してきた羽柴秀吉と、尼崎で対光秀攻めの軍議を開き、恒興は5,000人を率いて第3陣を受け持ち戦った。本能寺の変・山崎合戦のあとの清洲会議では、引き続き摂津の領有が確認されたが、1583年美濃国へ転封を命じられた。1584年長久手の戦いで、長子之助とともに戦死した。
『尼崎市史』においては史料の表記にしたがい「池田信輝」と記載しているが、『尼崎市史』通史編刊行以後の研究においては「信輝」と表記した同時代史料はなく、死去の年に至るまで自署はすべて「恒興」であることが指摘されている。また、恒興の長子「之助」の名の表記は「元助」とも伝えられる。谷口克広著『織田信長家臣人名辞典』は、「諱は「之助」とも伝わるが、「元助」の誤写であろう」としている。
参考文献
- 谷口克広著『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館 1995