池田氏

いけだし
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  池田氏の出自については不明な点が多く、(1)奈良朝の橘諸兄の後裔、(2)平安朝の紀長谷雄の末裔、(3)美濃池田郷の豪族、(4)北摂地方の士豪などの説があるが、(4)以外は牽強付会にすぎず、最近では北摂・三田(有馬)地方の士豪とする説が強い。ともかく池田氏は14世紀中ごろから16世紀後半にかけ、豊島〔てしま〕郡の池田城を拠点に北摂を代表する国人領主として活躍した。通説では初代教依〔のりより〕から知正まで10代の城主を数える。もっぱら管領細川氏に仕えて実力をつけ、15世紀中葉の5代充正〔みつまさ〕のころには貴紳を相手に高利貸しで財力を蓄え、版図を拡大したから都では池田氏を「富貴栄華の家」と呼んだ。しかし応仁の乱1467)とともに争乱に巻きこまれ、さらに細川・三好の内紛、自家内部の抗争がつづいて次第に統制を失い、1568年(永禄11)9代池田勝正の時織田信長の攻撃に屈した。だが所領を安堵され摂津三守護の一人に任ぜられたが、家臣の荒木村重に滅ぼされて衰退した。

執筆者: 松下煌

参考文献

  • 『大阪府史』第4巻 1981
  • 池田市立歴史民俗資料館『戦国の動乱と池田氏』 1989
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