池田重利
いけだしげとし
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
本願寺の坊官(執事職)父下間頼龍の跡を継いだとき、本願寺教如が執事職となることを認めなかったため、去って叔父姫路藩主池田輝政の家中となり、地方知行〔じかたちぎょう〕3,000石を受けた。輝政の死後、利隆の命で下間姓を池田に改めた。1614年(慶長19)家康の密命で、大坂の豊臣氏に備えるため、甥にあたる幼少の尼崎郡代建部政長を助け、つづく大坂冬夏両陣には利隆の命で引き続き尼崎城を守った。その功により1615年(元和元)7月21日、池田は摂津川辺郡7か村4,423石余、欠郡(西成郡)18か村5,576石余、合わせて1万石をうけ、同時に建部も川辺郡7か村5,614石余、欠郡8か村3,791石余、合わせて1万石をうけた。ともに尼崎城にいたが、池田は建部の後見、幕府の代官であり、尼崎藩主は建部であった。1617年9月11日播磨揖東郡鵤村に所替、1636年(寛永3)同郡新宮村に移り、代々新宮藩、1670年(寛文10)からは旗本としてつづいた。