河原林正頼
かわらばやしまさより
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
? - 1520年(永正17)10月
戦国時代初期、西摂で活躍した国衆。瓦林城(西宮市)の河原林氏の一族。1511年(永正8)、自ら築城した鷹尾城(芦屋城)を細川澄元軍の播磨赤松氏に攻略されたりしたが、彼の奉ずる細川高国が澄元を四国に追却したため復活、広田神社の丘陵に越水城を築いて澄元や赤松氏の東上に備えた。しばらく小康時代が続いたので正頼(政頼)の文化生活が展開された。歌道を公卿三条西実隆に学び、連歌師宗祇を招いている。1519年、細川澄元が四国から兵庫に上陸、鷹尾城から神呪寺山(西宮市)に進出、これに対し、細川高国が越水城の後詰めに下向したので西摂地方で戦火が続いた。1520年2月、越水城を開城して正頼は逃亡、高国は尼崎に退いた。しかし、上京した澄元は高国の反撃に敗れて播磨に逃走。四国に帰れなかったのは和泉堺に潜んだ正頼が海路をふさいだためだという。正頼も復活したが、同10月に澄元に通謀したと疑われ高国から自刃を命ぜられた。彼の一代記が「瓦林政頼記」(群書類従合戦部)だが、「若松物語」ともいう。山城の国衆革島左馬助が正頼に帰順して鷹尾城を守っていたが、左馬助誅伐を正頼近臣が謀議しているのを息子の松若丸が洩れ聞き、父に危急を知らせようと城を脱出したが捕らえられ、西宮六湛寺で斬られたという哀話をのせたのにちなむ。なお、正頼一流は河原林と署名している。
参考文献
- 『西宮市史』第1巻 1959