河尻刀禰
かわじりのとね
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
平安時代以来中世を通じて、河尻には住人達(水運業者・港湾労働者等)の代表者であり、かつ摂津国衙・検非違使庁・摂津守護所・下郡守護所等のもとで行政・司法上の実務を担当した「河尻刀禰」が存続した。この点は、渡辺党2家の本拠地となった摂津渡辺津とは異なる。14世紀後葉に成立した書簡形式の教科書『庭訓往来』〔ていきんおうらい〕には教育上の基礎知識として「京町人、浜商人、鎌倉誂物〔あつらえもの〕、宰府交易、室兵庫船頭、淀河尻刀禰、大津坂本馬借、鳥羽白川車借、泊々借上〔かしあげ〕、湊々替銭〔かわしぜに〕、浦々問丸」と記されており、津刀禰としては淀と河尻の刀禰が著名であったことがわかる。本来刀禰とは律令体制下の中央・地方の下級役人であったが、平安時代中期には都では保長が保刀禰にとって変り、農村・海村・山村でも法秩序を保証する在地有力者としての「保証刀禰」が一般化した。尼崎地方では10世紀末に東大寺が猪名荘南部の長洲浜の住人(廻船業者・漁民)を把握するために「渚司〔すし〕刀禰」を設置している(大治5年東大寺諸庄文書并絵図等目録/東大寺文書)。そうした一環として港湾都市にも津刀禰が形成された。しかし11世紀末院政期に入ると、農村の刀禰は姿を消し、津刀禰・浦刀禰のみが長く残った。ただし、和泉国では国例として村刀禰職が開発領主の下級所職として位置付けられた。
参考文献
- 『大阪府史』第2巻 1990・3 1979