浜崎荘
はまざきのしょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
鎌倉時代から戦国時代にあった荘園。この荘園は平安時代の仁寿年間(851~854)に立荘されたと伝えられる。浜崎は大阪湾や神崎川沿いにあった重要な港津の一つ。神崎川の尼崎市側には神崎・杭瀬・今福(大阪市側に久岐今福御厨の一部あり)があった。浜崎は現在の浜から西川付近か。鎌倉時代の1282年(弘安5)から1284年にかけて、京都東寺の塔修復のため棟別10文が家数125軒に課された。課税されたのは橘御園の一部(旧浜字御園、現浜3丁目付近)と興福寺領浜崎荘に住む荘民であった。興福寺領浜崎荘は本所が摂関家、領家が興福寺・春日大社である。同荘の神人は黄色の衣をまとって活躍したので、黄衣神人と称され特別視されていた。彼らの生業は海浜での漁業、さらに魚取引商人であり、隣接の東大寺領猪名荘内東大寺八幡宮神人らと競っていた。南北朝時代に入ると、西宮広田神社の神人との間で生魚の売買をめぐる争いをおこしている。同荘は応仁の乱前に一時期不知行となったが、1445年(文安2)の興福寺東金堂荘免田等目録帳には、18町9反120歩とある。戦国時代まで興福寺大乗院の支配が続く荘園であった。
参考文献
- 田中勇「(史料紹介)興福寺領浜崎荘と春日神人」『地域史研究』第6巻第2号 1976