浜田
はまだ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
大庄地区の大字。市域西部、蓬川上流に位置する。史料上の初見は1207年(建永2)「河内国通法寺領注文案」(正木直彦氏所蔵文書/『尼崎市史』第4巻)で浜田郷とある。中世には東新田とともに浜田荘の荘域であった。戦国時代にはしばしば陣がしかれる要地であった。
近世初期には幕府領、1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に533.2石、「元禄郷帳」に534.383石、「天保郷帳」に553.743石とある。また、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数53軒、人数317人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には47軒、197人とある。大島井組に属した。氏神は松原神社(近世には牛頭天王社、近代には素盞嗚神社となり1902年・明治35に現社名に改称)、寺院は臨済宗妙心寺派興禅寺・浄土真宗本願寺派浄専寺。
1889年(明治22)以降は大庄村、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1955年の土地区画整理と1983年の住居表示により浜田町・崇徳院〔すとくいん〕・大庄川田町となったほか、一部が稲葉荘・菜切山町・琴浦町・大庄中通・大庄北・西立花町・南七松町・南武庫之荘となった。