浜郷
鎌倉時代から戦国時代にあった郷。生島荘のうち。郷域は江戸時代の三反田村の小字浜周辺から隣接する尾浜村付近か。生島荘の中心となる中郷(のちの生島村)をはさんで北に富松郷があり、南に広がったのが浜郷であった。戦国時代の文明年間(1469~1487)には、さらに南の難波村まで含まれている。鎌倉時代に作成されたと思われる「諸御領仏神事役等注文」(九条家文書/図書寮叢刊)に「生島庄浜郷・富松郷以上春日四季御八講料所に宛てられこれを置く」とある。建長年間(1249~1256)に九条兼実から春日大社へ寄進された。面積17町6反大のうちには、損田・公文給・田所給・惣追捕使給・職事給・地頭給などの明細が記されている。浜郷の代官は興福寺から派遣された寺僧があたり、とくに1458年(長禄2)以前の約60年間は浄南院侍従法印清俊と同清承の親子が特任されていた。浜郷は当時地下請〔じげうけ〕が行なわれ、京都納め(京進)の年貢25石、八朔用の生島莚〔むしろ〕10枚、月廻〔めぐ〕りの小鯛100枚であったという。生島莚は当時この地が湿地・湖沼であり、ここに生育する難波芦で製成したもの。小鯛は庄下川河口から尼崎沖の海でとれた鯛であろう。浄南院親子に次いで1459年以降は柚留木〔ゆるぎ〕法眼重芸が代官を務めていた。1449年・1450年(宝徳元・2)には清承が怠納したため、大乗院は安東平左衛門に申しつけて年貢の未収分回収に努めた。その後応仁の乱中は多くの興福寺領は有名無実化したが、浜郷は1473年(文明5)重芸が高岡弾正に代納させた。さらに1482年(文明14)には柚留木春雅が当所の名主・沙汰人に請け負わせ、翌1483年には西田助家が又代の山間源三に代納させ、1484年から当時難波浜郷の領主でもあった難波新左衛門に仰せつけられたが、又代の中尾新左衛門尉に代納させている。このように「大乗院寺社雑事記」には、当時のめまぐるしい代官の交替が記されているが、1501年(文亀元)を境に同郷の記載が消え詳細は不明となる。