煙突男
えんとつおとこ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
昭和恐慌下の経営陣はこの不況を労働者の犠牲で切り抜けようとしたため、労働者の反撃もハンスト・飢餓行進・籠城・劇薬浴びせ・人糞撒き等過激な手段をとることが多かった。1930年(昭和5)11月富士紡川崎工場の煙突を占拠する「煙突男」が登場して以来、1932年にかけてアピール効果を狙い全国的に流行した。1931年12月9日富士製紙神崎工場(現新王子製紙神崎工場)が31名解雇。南隣の東洋紡績神崎工場でも請負工に対する1割賃下げを発表したのを機に争議が発生。12月12日、応援に駆け付けた天野義忠(22歳)は、富士製紙の煙突の金具が切り取られ登れないので、東洋紡の煙突(45m)に登り、「東洋紡単価値下絶対反対」「富士製紙争議を勝たせろ」の幟を吊下げた。藤岡文六の折衝で、食糧運搬を認めさせ小雨の一夜を過ごし、富士製紙は未解決ながら東洋紡からは譲歩を引き出し、滞空75時間で引き降ろされた。また1932年3月31日にも尼崎日本エレベーター争議で馬場行康が大阪医科大学病院の煙突に3日間登った。
参考文献
- 小泉洋「煙突男の流行」『大阪地方社会労働運動史編纂ニュース』 56号 1988