片桐且元
かたぎりかつもと
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
安土・桃山時代、江戸初期の武将。1594年(文禄3)の太閤検地、1609年(慶長14)の慶長検地の検地奉行。また、摂津の国奉行として1604年の三平井組・大井組水論の際の裁断者。1611年百間樋分木定めの検使衆。慶長年間(1596~1615)に行なわれた宿駅指定および、尼崎・塚口の在方牛馬が駄賃かせぎすることを可とする証文の下付など、猪名寺・椎堂ほかの村々に残されている古文書にその名前を見ることができる。
豊臣家家臣であった且元は、1614年(慶長19)の大坂冬の陣の際、大坂城を退去して茨木城へと移り、徳川方に転じた。同年10月12日、大坂方が堺を攻撃し、且元は堺救援のため兵を尼崎から船で送り込むべく茨木城から出兵したが、尼崎城に在城する郡代建部政長・代官池田重利らは警戒して片桐勢の入城をこばみ、渡海のための船も貸さなかった。このため、片桐勢は一部の兵しか堺へ渡れず、大坂方に迎え撃れた。また、尼崎に残った片桐勢は、出撃してきた大坂方の攻撃を受け、伊丹方面へと退きつつ防戦するも多くが討ち取られた。尼崎の城兵が片桐勢を見殺しにしたことが、手落ちであるとして後日問われている。これに対して、代官池田重利の主君である池田利隆が、海陸を守る尼崎城を固めるのが家康の命であったこと、片桐勢救援のため城を出たすきに海路から城を奪われる失態があっては天下の一大事であり、大坂方の術策を警戒したと弁明し、家康の理解を得ている。こののち、且元は徳川方として大坂の陣に参戦し、1615年の大坂夏の陣終結直後に病没している。なお、且元の弟である片桐貞隆(大和国添下郡小泉藩主)が、近世を通して現尼崎市域の常光寺を領有している。