版籍奉還
はんせきほうかん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1869年(明治2)正月薩・長・士・肥4藩の藩主は建白書を提出し、版籍奉還(領土と人民を朝廷に返上すること)を願い出た。つづいて各藩とも願い出たが、尼崎藩でも翌2月いちはやく願い出て、市域に所領のある飯野藩・小泉藩・半原藩ともども6月に奉還が勅許された。このとき尼崎藩主桜井忠興は尼崎藩知事に任命され、それまでの藩の支配は認められたが、同時に現貢租実収高2万7,670石の10分の1すなわち2,767石が藩知事個人の家禄として藩財政から分離して固定された。この画期的措置は、藩主を華族と称することとともに、藩主の地位を優遇するものであった。それにたいして上級の藩士529人は士族、下級の藩士608人は卒と称することになり、その禄制改革を行なうべきことが指示された。