今日は何の日(3月6日)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
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- 造住吉社役料賦課に抗議して都へ向かう広田社の神輿が神崎に留まり、同月11日官使の説得により帰社した。(1194年)
- 近衛家実が方違のため橘御園に立ち寄った。(1208年)
- 熊野那智大社の御師清水作右衛門は、尼崎および西宮一円の旦那株を同社宿坊の橋本坊に売り渡した。(1602年)
- 尼崎衆は、織田信長の軍勢に抵抗したが30人余討ち取られ、長遠寺・如来院を除いて町を焼き払われたと伝えられる。(1569年)
- 園田村長に粟生徳次郎が就任した。(1916年)
- 東亜セメント争議における会社側の全員解雇方針に対して、労働者側が交渉した結果、解雇161人、解雇手当獲得などの条件で妥結した。(1921年)
- 大日本紡績尼崎工場の労働争議が、争議団130人解雇と解雇手当支給の条件で妥結した(日紡尼崎工場争議)。(1931年)
- 日本油脂がベルベット石鹸と日本食料工業のいわし肥料部門、国産工業不二塗料製造所などの統合により設立された。(1937年)
- 大庄・立花・武庫村の合併にともなう尼崎市会議員増員選挙が実施された。(1942年)
- 久保田鉄工神崎工場周辺での居住歴があり、中皮腫により亡くなった住民2人の遺族がクボタと国を相手取って提訴した兵庫尼崎アスベスト訴訟の控訴審判決がくだされ、大阪高裁は神戸地裁の一審判決と同様に国の賠償責任を認めず、住民のうち1人についてクボタの賠償責任を認め賠償金支払いを命じた(原告およびクボタが最高裁に上告)。(2014年)