猪名荘
現在の尼崎市東南部の神崎川西岸沿いに位置した東大寺の荘園。756年(天平勝宝8)、孝謙天皇が東大寺に施入したことにはじまる。初期の景観を伝える「猪名庄絵図」によると、荘域は、東西を川で境され、北には口分田と百姓家、南は浜地につづいて海に面しており、施入当時の荘園は46町6反余であった。この地域は、海岸に望む低湿地であったため、北部の集落を中心に、三次にわたって堤防を築き、その内側を排水して開発する方法をとりながら耕地と荘域を拡大していった。しかし、10世紀にはいり延喜の荘園整理令がだされると、摂津国司は当荘の拡張をきびしく抑制して、荘田の面積を85町1反余と認定し、これを固定する方針をとった。ただし、これとは別に、猪名荘の付属地として、野地100町と浜250町の領有を東大寺に認めている。この浜が長洲浜で、高先生秦押領使〔こうのせんじょうはたのおうりょうし〕らの住人の居住もすすみ、漁民集落が発達しはじめると、東大寺は住人から在家地子を徴収するようになった。さらに港湾を管理する検非違使庁もきびしく庁役を課してきたので、住人たちは、小一条院敦明親王・式部卿官敦貞親王父子をはじめ、関白藤原教通、皇太后宮藤原歓子など、つぎつぎと権門勢家の散所となり、課役免除の身分的特権をえようとした。ところが、1084年(応徳元)、皇太后宮職と鴨社との相博によって長洲浜に鴨社領の長洲御厨が設定されたことを契機として、東大寺・鴨社相論がはげしく展開されるにいたった。この相論の過程で、11世紀の末ごろから、長洲浜を猪名荘から分立させて長洲荘として支配する体制を推進したため、1100年(康和2)に、東大寺別当永観が摂津国司に猪名荘の田地面積の確認をもとめたさい45町に半減されている。一方、猪名荘の北東部においても、12世紀中葉に、猪名荘下司頼兼が、隣接の摂関家領橘御園・椋橋西荘の田地をとりこもうとして相論している。しかし、猪名荘の本荘部分はその後あまり発展することができず、鎌倉末期には御家人の松田小五郎によって下司職が押妨されるなど、次第に衰退していった。なお、東大寺領とは別に、鎌倉中期から応仁の乱ごろまでの史料に、興福寺領猪名荘の名が散見するが、その実態は詳らかでない。
JR尼崎駅北側の再開発事業により猪名庄遺跡が発掘され、猪名荘の中心施設「荘所」の一部と考えられる遺構や遺物が確認されている。