琴陽之珠

きんようのたま
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
『琴陽雑誌』
『琴陽雑誌』

  尼崎の士族をおもな会員とする親睦会「琴陽会」の機関紙として、1891年(明治24)5月創刊された。1893年11月発行の16号(または未発行の15号)から『琴陽雑誌』と改題、廃刊の年月は不明であるが、1896年11月発行の51号まで現存している(東京大学明治新聞雑誌文庫所蔵)。内容は会員の投稿する論説・文苑・紀行などのほか、川辺郡・尼崎町などに関する統計や雑報が毎号掲載されている。論説の執筆者は士族が多く、尼崎の衰退を嘆くもの、逆に川辺馬車鉄道三収組尼崎紡績など尼崎の発展を賞賛するもの等、当時の士族の気風を知ることができるばかりでなく、ほかに新聞社などのなかった尼崎にとって当時の事情を知る上できわめて貴重な資料である。しかし論説・雑報などに自由に政治的記事を掲載する事ができなかったので、1896年8月保証金を納めて政事雑誌として発行することになった。保証金は、マッチ工場を経営していた小嶋廉平・金次郎父子が調達して同年9月発行の49号から政事雑誌として発足した。同時に編集人にはやはりマッチ工場を経営していた小森純一の子貞治郎がなり、発行人は小嶋金次郎がなった。この小森父子はクリスチャンで、そのころ問題化していた尼崎の遊廓設置に反対しており、政事雑誌への改組もそのための反対の論陣をはることを目的としていたのではないかと思われるし、またじっさい、『琴陽雑誌』はこの問題の反対に大きい役割を果たした。

執筆者: 山崎隆三

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