生島井組・富松井組水論
いくしまゆぐみ とまつゆぐみすいろん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1757年(宝暦8)、富松井(野間井)と生島井の井溝が100間余にわたって並行して流れている西昆陽村字松原でおきた水論。2本の井溝の6尺~1丈の堤を生島井組が広範囲に掘り崩して溝の両壁を切り立てて川ざらえをしたために、富松井の水が生島井へ透いて流れると、富松井組が大坂町奉行所に訴え出て争論になった。大坂町奉行所は生島4か村の領主である尼崎藩に仲裁を命じた。1762年(宝暦12)、両組立会って争論場所の絵図を作成し、翌年内済した。双方で取り交わした証文では、両組とも間の堤を切りとらないように、東側の富松井は溝幅1丈2尺、土砂は東岸と間の堤にあげ、西側の生島井は溝幅9尺として土砂は西岸との間の堤にあげること、堤に10間ごとに境目の石と杭木を打ち込むことを定めた。