生島井組・武庫井組水論
いくしまゆぐみ むこゆぐみすいろん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1647年(正保4)生島井組が武庫川の水筋から生島井の樋口まで瀬掘りしたところ、すぐ下流の武庫井に支障があったらしく、争論がおこった。生島井組は樋口から1町上手までしか瀬掘りできないことになっていると武庫井組側が訴え出たが、それが偽りの申し立てと裁定され、逆に生島井組側は水が取れるまで何間でも武庫川原を掘って良いとの裁決が出された。1654年(承応3)の生島井の新設・拡張のときも武庫井組が故障を訴えた。1712年(正徳2)の大洪水で武庫川東岸は大きな被害を受け、隣接していた富松井・生島井・武庫井の井路がともに土砂で埋まってしまった。この復旧のときに富松井溝は幅2間、生島・武庫両井溝は幅1間半と定めて掘り直すことが協定され、今後井溝幅に関する変更を認めないという先規ができた。1767年(明和4)武庫井組が井溝の幅を広げたいと願い出たが許されなかった。