生魚問屋
せいぎょどんや
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
尼崎で最初に確認できるには、1695年(元禄8)のことで、西町の碇〔いかり〕屋治兵衛と東町の丸屋弥右衛門の2軒であった。このとき2軒の問屋は、生魚を持ち込む客船との取引の範囲・方法を、灘目や兵庫津・堺浦などの客船の地域別に「先々どおり」や荷主の選択次第などと互いに協定した。尼崎ではそれまでの長い間に生魚取引と魚市場の前史があったと考えられるが、その後問屋は宝暦・明和期(1751~1772)5軒、文化年間(1804~1818)9軒から11軒と増加し、1810年(文化7)には尼崎魚問屋仲間株を尼崎藩に認められて年々銀200枚の魚問屋冥加銀を上納することになった。株仲間は1829年(文政12)には最高12軒に達し、取引先も幕末期には瀬戸内海全域にひろがっていた。問屋が生魚を買い入れるには、問屋から漁業者に資金を前貸しして積荷代金で決裁する方法や、各問屋所属の出買人が生産地で買付けてくる方法があった。問屋が買い取った鮮魚は、尼崎の魚市場を通して尼崎地域だけでなく大坂・京都で大量に売りさばかれた。しかし、尼崎生魚取引は1878年(明治10)ころからは急速に衰退していき、1890年には問屋も5軒を数えるのみとなった。