田能村大和守
たのむらやまとのかみ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
実名・生没年未詳。室町時代1461年(寛正2)、田能村荘の領主であった大和守は、原田荘(六車郷)の久米井をめぐって領界杭を取り除く行動にでた。興福寺と春日大社は大和守を排除するため訴訟を行なった。田能村氏は、国人と呼ばれる土豪層で、当時、管領家で摂津守護の細川勝元の被官であった。この事件では興福寺側は久米井の件で大和守を死刑に、その所領田能村荘を寺社へ寄付するよう幕府に申し入れてきた。幕府は大和守の逃亡を理由にその跡(欠所)を守護の支配下とすることとしたが、寺社側は承諾しなかった。守護は没収地を支配し続ける代わりに橘御園の得久名ほかを渡すことで妥協した。これを受けて寺社側は大和守の田能村城(屋敷地)の外城(出城)に放火し、その一画に神木を立てて勝利を宣言した。これを後の田能春日社とみなすことができる。