畑砂慣行

はたすなかんこう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  第1次大戦ころまで尼崎市南部の新城屋新田初島新田(旧大洲村、現在の初島・松島・向島・高洲・東浜の諸町一帯)に存在した永小作慣行の一種。この地域は18世紀のはじめ新城屋などの商人が開発した新田であるが、入植した農民の労費によって高潮の被害の修復などが行なわれ、そのなかで「上砂」または「畑砂」と称する上土権が生じた。上土権の所有者はその土地の耕作権の売買・質入れ、小作貸付け、地目の変更など土地の使用収益処分も自由にできた。これに対して開発以来地床権の所有者があり、上土権者より地盤料(小作料に相当するもの)を収得する権利をもち、この地床権も売買などができた。上土権の売買価格は明治中期には1反歩100円くらいすると、地床権のそれは30円くらいで上土権が上位にあった。地租改正のとき他の永小作権と同様に、地床権者が土地所有者と認められ上土権者はその小作人とされた。1896年(明治29)の民法改正で永小作権の存続期間が50年間に限定されたので、上土権は弱くなりその売買価格も急落した。そのため尼崎町・大洲村在住の200人余りの小作農民は1899年「永小作権に関する嘆願書」を政府に提出し、地主との紛争がつづいたが、1919年(大正8)示談が成立した。その後この地域が工場地帯となったので紛争は自然に消滅した。なお市域にはほかに同様の永小作慣行として猪名寺村の「二損高」慣行がある。

執筆者: 山崎隆三

参考文献

  • 熊谷開作「民法実施当時の尼崎の土砂慣行」『地域史研究』第9巻第2号 1979

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