徳田五郎兵衛
とくだごろべえ
(碇屋より転送)
(碇屋より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1695年(元禄8)ころ成立したと考えられる、尼崎西町(中在家町)の生魚問屋の当主。碇屋〔いかりや〕を屋号とし、当主は兵右衛門・治右衛門・六左衛門を称したが、のち五郎兵衛を代々襲名した。18世紀前半には、東町の同業者丸屋弥五右衛門とともに、明石・淡路から堺浦までの、大阪湾で捕れた魚介の取引をしていた。1758年(宝暦8)戎の浜(中在家町2丁目)にあった魚市場が大浜筋(同5丁目)に拡張移転したころには、九反帆(100~170石積)の生簀船や出買人を使用して、瀬戸内海全域と取引するようになった。1785年(天明5)碇屋五郎兵衛は3歳で親と離れたために、後見を出買人名塩屋太兵衛に頼んだところ、寛政(1789~1801)ころから、しだいに碇屋の取引先が名塩屋の方に移り、名塩屋は出買人から魚問屋に成長した。そのほかの碇屋の持ち浦も、つぎつぎとほかの問屋の手に渡り、碇屋の衰退がはじまった。1810年(文化7)尼崎の魚問屋が尼崎藩に願い出て問屋株20株を認められるなど、文化・文政年間(1804~1830)に生魚問屋12軒を数える繁栄の基を築く、先駆的役割を果たした。なお1876年(明治9)には9軒の魚問屋が中在家町にあり、1896年、1910年には5軒に減少しているが、いずれの年にも徳田家は名を連ねている。