神崎
小田地区の大字。市域東部、神崎川の西岸に位置する。古代以来の地名で、「摂津国風土記逸文」(『尼崎市史』第4巻)中に神功皇后が新羅遠征に際して神々を祭ったと伝える神前〔かんざき〕松原や、「住吉大社神代記」(同前)中に神功皇后が住吉の神に寄進したと伝える神前審神浜〔かんざきさにわのはま〕はこの地に比定されている。785年(延暦4)に開削された神崎川河口の河尻に位置し、神崎津は西国と畿内を結ぶ水運のうえでも重要な港であった。神崎としての史料上の初見は1079年(承暦3)「某荘立券文案」(壬生家文書/図書寮叢刊)。平安後期から鎌倉時代にかけては神崎遊君の地として知られ、また鎌倉後期には神崎関が設けられた。法然上人に帰依して入水したと伝える遊女を祭って、1692年(元禄5)に建てられた遊女塚が今も残っている。また遅くとも平安後期には神崎の渡しができ、鎌倉初期から南北朝には神崎橋がかけられていた。交通の要衝であったためか、南北朝時代や戦国時代にはしばしば戦乱の舞台となっている。さらに1413年(応永20)の東寺西院御影堂屋根葺き替えにあたって、尼崎番匠から分化したと考えられる神崎番匠が大きな役割を果たしたという(教王護国寺文書/『尼崎市史』第4巻)。
近世初期には幕府領、1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に326.57石、別に28.666石、「元禄郷帳」に336.477石、別に28.666石、「天保郷帳」に344.109石、別に28.666石とある。また、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数79軒、人数427人、別に8軒、32人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には108軒、464人、別に22軒、81人とある。西明寺井組に属した。近世の神崎駅は大坂と尼崎を結ぶ中国街道の宿駅で、古代以来の神崎の渡しがあり、北には有馬道が分岐していた。氏神は須佐男神社(近世には牛頭天王社)、寺院は浄土真宗本願寺派瑛光寺・同宗同派西法寺。
1889年(明治22)以降は小田村、1936年(昭和11)以降は尼崎市の大字となった。1981年の住居表示により神崎町となったほか、一部が額田〔ぬかた〕町・高田町・善法寺町となった。