神崎津
かんざきつ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
785年(延暦4)、長岡京遷都のさいに神崎川(旧称三国川)と淀川をつなぐ水路が開かれ、神崎川が都と西海を結ぶ水路として利用されるようになると、舟底の浅い河船と風波に強い渡海船とを乗り継ぐ港が必要となり、河口の河尻に船泊りが形成された。神崎川が都から西国への主要な交通路として発展してくると、神崎の地は人と物の集中点となって集落も拡大し、平安時代末期には浜崎・杭瀬・今福などとともに河尻に発達した「要津」の1つに数えられていた。また、平安時代後期から鎌倉時代にかけては、遊女の屯する一大歓楽地として江口とならんで世に知られていた。また、陸上交通においても、中国街道・伊丹街道とも結びついて、人々や都の文化を西方に送る一拠点となった。鎌倉後期には興福寺の関所(神崎関)も設けられたが、14・15世紀になると尼崎が神崎川河口地域の中心的な港になっていた。
参考文献
- 渡辺久雄「中世の尼崎付近の交通路」『地域史研究』第15巻第2号 1985