神崎関

かんざきのせき
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  中世の神崎津に置かれた関所。鎌倉中期以降、朝廷が要港・要津などに関所を設け、船舶からの津料の徴収権を権門寺社に寄進して造営費などに充てるようになると、この地にも関所が設置されるにいたった。1301年(正安3)、伏見上皇の院宣によって渡辺関(現大阪市)とともに、興福寺の講堂・雑舎の造営費に充てられたのが初見。その後、当関の津料が福泊(現姫路市)の修固料とされたこともあるが、南北朝期には再び興福寺の造営料所となり、兵庫・渡辺・禁野(現枚方市)・淀(現京都市)の各関とともに「河上五ヶ関」と称され、その津料は興福寺の重要な財源となった。その収益に目を付けた室町幕府は、一時、神崎・淀の両関を没収したこともあるが、のち将軍足利義詮は神崎・一洲両関における札狩りと称する過書船からの津料の徴収権を興福寺造営料として寄進しており、当関にたいする興福寺の支配はながく続いた。

執筆者: 田中文英

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