神田孝平
かんだたかひら
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1830年(天保元)9月15日 - 1898年(明治31)7月5日
美濃国不破郡岩手村(現岐阜県不破郡垂井町)に父孟明の子として生まれる。ペリー来航後蘭学を学び、1862年(文久2)蕃書調所教授出役となり、以後開成所教授等を歴任、幕府に仕える。明治維新後は新政府に出仕、1871年(明治4)兵庫県令に就任するまで、徴士・議事体裁取調御用掛・公議所副議長・集議院判官等を歴任。その間1870年には、「田租改革建議」を立案し、地租改正に道を開いたことは有名。その考え方は、商工立国主義・啓蒙主義であり、故に福沢諭吉らも参加した明六社にも参加し、開明派の知識人としても活躍した。また1871年12月には第2次兵庫県の初代県令に就任、廃藩置県後の近代的県行政の確立に尽力した。英国人マーシャルに命じて最初の神戸築港計画を立案したり、「民会議事章程略」等を立案し地方民会の確立に努力し、1875年に開催された地方官会議には幹事長として臨み、公選民会の必要を説いて木戸孝允ら政府と対立した。しかし1876年、元老院議官に転任、以後文部少輔・元老院議官・貴族院議員を歴任した。また終生学問への関心を失わず東京学士院会員・東京人類学会初代会長なども務めた。著書には『世事要言』『経世余論』などがある。
参考文献
- 本庄栄次郎『神田孝平-研究と史料-』(『経済史研究会叢刊』第7冊) 1973 経済史研究会