禄制改革
ろくせいかいかく
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
版籍奉還のとき藩主の家禄は藩の実収高の10分の1に定められたが、藩士の家禄については財政困難のため1~2回の禄制改革を行なって変更(多くは削減)された。尼崎藩では、1869年(明治2)の後半から翌年にかけて禄制改革が行なわれたと推定される。その内容は、知行取は20以上の階層に分かれていたのを改め、元高950石の藩主の一門桜井忠顕は50石、800~300石の家老・中老職は一率に32石、240~50石の平士層は20石という3階級とし、また下層の切米取は14石から3石7斗までの12等級とし、禄制を単純化した。その結果、110石以上の上士層は20~50%の削禄となったのにたいして、切米取をふくむ中・下士層は10~20%程度の加増(最下層はやや削減)となった。当時藩政の主導権をにぎっていた中・下士層に有利な改革であった。この禄制は廃藩までほぼ変化することなく、のちの秩禄処分はこれを基準として実施された。
旗本の場合は、1869年12月禄制が布告され、すべて旧来の知行制を廃し、21等級および等外にわけて家禄を定め現米で支給されることになった。旗本で最高の禄高1万~9,000石のものは現米250石、最低の100~80石のものは現米13石というように損上益下の方式であったが、全体として大きく削禄された。下坂部村など市域に700石の知行のあった青山氏(幸高系)の場合実収高は250石程度であったと推定されるが、禄制によって現米55石が支給されるに止まった。この禄制による現米支給高が、旗本の秩禄処分の基準となった。