穴太
あのう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
園田地区の大字。市域北東部、猪名川と藻川の間に位置する。戦国~江戸時代の石垣造りの技能集団であった穴太衆との関係を示すような史料や伝承はなく、古代の渡来氏族穴太氏に由来するという説がある(落合重信「地名からみた尼崎地域」/『地域史研究』第1巻第3号)。『摂津志』によれば中世には椋橋西荘の荘域であった。史料上の初見は1605年「慶長十年摂津国絵図」でアヲウ村とある。
近世には1601年(慶長6)旗本柘植氏(正俊系)の知行所となり明治に至ったと考えられるが、1615年~1617年(元和元~3)の間建部政長の領地であったとする史料もある。村高は「慶長十年摂津国絵図」「元禄郷帳」「天保郷帳」のいずれのも228.939石とある。また、1689年(元禄2)「庄屋万覚え帳」(『尼崎市史』第5巻)には家数15軒、人数124人とある。三ツ又井組に属した。氏神は白井神社(近世には白井天王社)。
1889年(明治22)以降は園田村、1947年(昭和22)以降は尼崎市の大字となった。1961年町名改正により東園田町の一部となり、穴太という地名は消滅した。