篠原長房
しのはらながふさ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
? - 1573年(天正元)5月
戦国時代の武将。初め三好義賢に属し畿内を転戦した。1562年(永禄5)義賢戦死後、阿波支配は義賢の嫡子長治が継いだが、幼年のため長房らが重臣として領国経営を補佐した。したがってその生涯は本拠を阿波にすえながら、畿内へ随時出兵を繰り返すというものであった。三好長慶没後は三好三人衆政権の軍事的一翼を担い、1566年には三人衆の要請で阿波軍を率いて尼崎に上陸、松永久秀方を攻撃して同年6月には越水城を包囲、7月にはこれを陥れ、尼崎から杭瀬一帯に滞陣した。この年6月大覚寺に禁制を掲げている。1570年(元亀元)信長が三人衆を攻めた時、三人衆救援のため阿波から出陣し、三好長治・篠原忠調らと本興寺・如来院および別所村などに陣取った。同年11月信長と和睦したが、1573年(天正元)阿波上桜で細川真之と戦って敗死した。分国法「新加制式」を編纂したことは有名である。
参考文献
- 若松和三郎『篠原長房』 1989 原田印刷