須佐男神社
(素盞嗚神社より転送)
市域では小田・大庄・立花・武庫・園田の各地区に鎮座する。祭神は須佐男命・牛頭天王〔ごずてんのう〕など。JR東海道線より北の東部と西部に特に集中して分布する須佐男(素盞嗚)神社は、明治初年の神社行政により、社名を牛頭天王社から呼びかえられた。元来須佐男命は牛頭天王の別称で、1838年(天保9)「巡見使通行御用の留」(『尼崎市史』第6巻)記載の鎮守名には「牛頭天王」「牛頭天王社」と多く見える。創始時期について、東武庫・西武庫の須佐男社は、11世紀(永保年間・1081~1084)に京都祇園社から牛頭天王の分霊を勧請〔かんじょう〕して建立したという。八坂神社の荘園(社領)との関係を主張するものがある一方、近世に牛頭天王信仰が一種の流行神として村落に普及し、稲荷などの農民の素朴な祭神が牛頭天王に替えられたといわれる。しかし須佐男(素盞嗚)社には歴史的・宗教的に多くの特徴がみられる。市北部の南清水の素盞嗚社は南清水古墳の上に建っており、水堂の須佐男社は境内全体が前方後円墳(水堂古墳)である。これなどはおそらく豪族の始祖霊を古墳に祀ったもので、始祖霊の荒魂〔あらみたま〕があらたかな霊威をもつ牛頭天王として祀られた事例である。また久々知の須佐男社は、1323年(元享3)赤松則村が同じく摂津国の瀬川(現箕面市)で六波羅軍勢と対陣し、社傍に陣を構えて戦勝を祈願したという。潮江の素盞嗚社も、16世紀前期(享禄年間・1528~1532)に三好長慶が足利氏に叛起し、池田に進軍するとき当社に戦勝祈願したと伝える。いずれも霊威ある牛頭天王が戦勝祈願に効験があるとされた例である。神仏習合の遺風と考えられるには市北西部の西武庫と守部の須佐男社で、西武庫須佐男神社十三重塔(県指定文化財)と守部素盞嗚神社十三重塔残欠は、ともに14世紀前期の造立の紀年銘や意趣をもつ。前者の銘文には、神主の「三宮藤□某」が両親の菩薩と衆生を供養するために、1320年(元応2)庚申8月19日に刻まれたことがみえる。広済寺に隣接する既述の須佐男社は、近世には久々知妙見(北辰堂)と称され、能勢町内に鎮座する能勢妙見とともに、演劇関係者の信仰を集めていた。また、西昆陽の須佐男社には宮座があり、氏子が各戸で「おとう」(お頭、祭の祭主役)を行なっている。
参考文献
- 落合重信「地名からみた尼崎地域(続)」『地域史研究』第2巻第3号 1973
- 『兵庫県神社誌』 1937 兵庫県神職会