細川晴元

ほそかわはるもと
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1514年(永正11) - 1563年(永禄6)3月1日

  戦国時代の武将。細川澄元の子。1527年(大永7)の桂川合戦で細川高国を京都から追放し、堺に本拠を置いて足利義維〔よしつな〕(義晴の弟)を擁立、事実上の細川氏家督となった。この時義維から山城・摂津・丹波の守護に任ぜられた。1531年(享禄4)には大物崩れで高国を敗死させ、翌1532年(天文元)には将軍義晴と講和して幕府を再建、翌1533年一向一揆のため一時淡路に逃げたが、1536年には法華一揆を弾圧して入京を果した。しかし、三好長慶らの台頭で治世は安定せず、1549年6月の江口の戦いで長慶に大敗し晴元政権は崩壊した。以後近江・若狭・丹波の間を流浪して京都奪回を計ったが成功せず、晩年は質子〔ちし〕を長慶に差出し、その飼い殺し同然の身で摂津富田に卒した。1549年4月本興寺に禁制を掲げている。

執筆者: 今谷明

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