細川高国
戦国時代の武将。父は細川政春(頼元の末子満国の曽孫)で、守護家でもなく、細川一族中では低い身分の出といえる。1507年(永正4)6月、関白九条政基の子澄之が養父細川政元を暗殺して幕政が大混乱に陥るや、同年8月京都遊初軒〔ゆうしょけん〕の戦いで細川一族を指揮して澄之を敗死させ、一躍武名を馳せて台頭した。翌1508年3月には大内義興とはかって将軍義澄を追放し、6月には前将軍義稙〔よしたね〕を擁して幕府を再建した。7月、東大寺法華堂衆僧に対し長洲荘野地前田を安堵している。幕府再建の功で高国は管領兼摂津・丹波等の守護となり、義興は山城守護となった。このように第2次義稙政権は事実上細川・大内両氏の連合政権であったが、1518年(永正15)義興が周防に帰国すると高国は幕政をほしいままにした。1519年秋に細川澄元が反して挙兵すると、高国は池田城に入って武庫・水堂・浜田・野間(現伊丹市)に迎撃したが1520年正月、2月の戦いで越水(現西宮市)・尼崎に敗れ、一時は近江に逃亡した(のち京都を奪回)。翌1521年(大永元)には義稙を追放して義晴を将軍に擁立したが、1527年京都桂川の合戦で澄元の子細川晴元に破れた。この間の1526年に尼崎城を築いて細川尹賢に守らせたという。以後京畿から山陰・山陽の間を流浪して反撃の機をうかがったが、最後は大物崩れの合戦で晴元軍に大敗し、尼崎の紺屋に潜伏中を捕えられ、1531年(享禄4)大物の廣徳寺で自刃した。辞世として「此浦の波より高くうき名のみ世々に絶えせぬ立ぬへき哉」など短冊6葉を縁故知友へ遺した。法号は道永、のち常桓。
高国の最期について、生嶋宗竹が1550年(天文19)に記した「細川両家記」(『群書類従』第20輯合戦部)は、尼崎町の京屋もしくは紺屋に隠れていたところを捕らえられ、大物の廣徳寺で自刃したと記述している。一方、同時代史料である公家鷲尾隆康の日記「二水記」(『大日本古記録』)には、高国が三好山城守の介錯により尼崎町の京屋で切腹したとあり、田中勇は三好山城守が切腹した高国を弔ったのが廣徳寺であろうとしている。
参考文献
- 田中勇「細川高国の切腹と大物・富松・京都」『地域史研究』第37巻第1号 2007