総同盟尼崎連合会
総同盟大阪連合会傘下に組織されていた尼崎の総同盟労働組合では、その実勢の発展にともない、大阪から独立して尼崎独自の組織を確立しようとの議が起こり、1922年(大正11)10月20日日本労働総同盟関西労働同盟会大阪連合会より独立して尼崎連合会が設立された。しかし、内訌や灘連合会の独立などによっていったんは勢力が衰退した。1924年3月8日同連合会の再建発会式が組合員350人を集めて西性寺で開かれ、鈴木文治らが演説した。同日総同盟尼崎第2支部(久保田鉄工所尼崎工場)の復活式も挙行された。このような動きを経て、1925年9月5日尼崎機械労働組合久保田支部が中心となり総同盟尼崎連合会が発足した。木管・薄板・中山・武庫川の各支部から84人の代議員が集まって市立図書館で創立大会を開き、会長根崎貞儀(平沼晃)、主事藤岡文六らが選出された。実質的な大阪連合会からの独立とされる。尼崎市内の数多くの争議を指導し、三法案(労組法等改悪)反対等政治闘争も展開した。1925年の総同盟第1次分裂の余波を受けず、尼崎連合会は藤岡らの指導で総同盟に踏み止まった。1926年4月における組織人員は久保田鉄工・住友伸銅などを主力とする尼崎機械労働組合の738人を筆頭に1,740人。1928年(昭和3)の阪神電鉄に対する電燈料金値下運動等にも取り組んだ。総同盟第2次分裂で、1926年12月日本労農党支持の藤岡らを除名、被除名者は組合同盟を結成した。1929年9月の第3次分裂で尼崎連合会長山内鉄吉が除名され、全国同盟尼崎連合会へと分立した。1936年1月総同盟と全労の合同により全日本労働総同盟(全総)が結成され、尼崎でも同年9月合同して全総尼崎地方協議会が発足した。合同前の組織人員は久保田支部531人など885人。
参考文献
- 尼崎労農旧友会『戦前尼崎の労農運動』 1979