縄文海進
じょうもんかいしん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
関東平野の台地の緑に、先史時代の貝塚で海生の貝類を含むものが多数分布することから、東木龍七はかつて関東平野の奥の台地の緑まで海におおわれていたと考え、地形的考察を加えて、先史時代の海岸線を引いた。その後縄文時代の時代区分が進んで、貝塚の年代が詳しくわかるようになり、海水浸入の時代とその推移が考古学的に明らかになってきたので、この海進を縄文海進と呼ぶようになった。尼崎から大阪平野にかけての縄文海進の推移は、前田保夫によって地質学的資料に基づいて明らかにされた。すなわち大阪南港大橋の橋脚の基礎工事がケーソン工法によって掘削されたのを利用して、潜函内で沖積層の露頭を肉眼で観察し、貝化石や花粉化石・珪藻化石を検討し、また多数の放射性炭素の年代資料をそろえた結果、ほぼ尼崎粘土層、梅田層が縄文海進時の海水面上昇に対応して堆積したものであることが明らかとなった。その上昇は約8,000年前から始まり、7,000年前から6,000年前にかけて年平均1cmを越える速度で上昇し、5,000年前あたりから現況に近くなったとみられる。その原因は世界的な氷河性海水面変動に求められ、最終氷期後の世界的海進と年代・規模ともに一致する。
参考文献
- 前田保夫『縄文の海と森』 1980 蒼樹書房