職業紹介所
第1次大戦後の恐慌による失業者の救済を目的として、1921年(大正10)4月に職業紹介所法が制定された。これにさきだつ1920年7月に兵庫県は市・郡長を召集して、失業者救済機関設置の訓示を行なった。これをうけて尼崎市では、同年10月25日から旧城郭内尼崎倶楽部を市立職業紹介所の仮事務所とし、吏員4人を配置して紹介事務を開始、さらに旧城郭内市役所裏手に木造2階建て30坪余の事務所を建設した。紹介事務はすべて無料で、市は求職者の身元保障の責任を持たないことになっていた。開設後日中戦争がはじまる1937年(昭和12)までほぼ毎年求職者は増大し、一部の年を除いて求人数を上回った。1937年を境に一転して求人難・労働力不足となり、政府は1938年7月職業紹介所を市町村営から国営に移管、1939年1月に実施された国民登録制により、一定技能者の職業紹介所への登録を義務づけて徴用の対象とし、1941年10月には登録対象が16~40歳の男子、16~25歳の独身女子全員に拡大された。この間、1939年7月には昭和通1丁目に木造2階建ての庁舎を新築移転、1941年2月には尼崎国民職業指導所と改称、1944年3月にはさらに尼崎国民勤労動員署と改称した。こうして職業紹介所は、失業救済機関から戦時労務統制機関へと性格を変えて終戦を迎えた。
戦後は1945年10月に尼崎勤労署と改称、1947年4月廃止、新たに制定された職業安定法にもとづき国営の尼崎公共職業安定所となった。1967年4月、久々知字永長(現名神町3丁目)に庁舎を新築移転した。
昭和15年の事務報告書によると、尼崎職業紹介所新築工事は1940年9月30日に竣工したとあり、上の記述にある1939年7月の新築移転との関係は現在のところ不詳である。
1990年度から、全国の公共職業安定所が公募により募集した愛称「ハローワーク」を使うことになり、尼崎公共職業安定所も「ハローワーク尼崎」という名称となった。2016年1月12日、ハローワーク尼崎は阪神尼崎駅北東のアマゴッタ2階(西大物町12)に移転した。
参考文献
- 『兵庫県尼崎市昭和十五年事務報告書』