興福寺

こうふくじ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  南都七大寺の一つ。平城奠都直後に藤原不比等が京東の春日野に建立した。父の鎌足が近江大津京の山階邸で創めた維摩会を大会とする法相宗の大本山、藤原氏の氏寺である。神仏習合思想を説いて氏社春日大社を支配、摂関家と春日社興福寺の一体化組織が成立、全国にわたって寺社領荘園を獲得、大和では国司・守護の両権を行使、奈良を京都に次ぐ大都市に発達させた。中世、東大寺とともに阪神地方の要地を占有、とくに尼崎地方を南部の門戸港として育成した。当地方の春日社興福寺領は摂関家領の分与も加わり、浜崎荘・神崎荘・富松荘生島荘富松郷(東富松郷)などとして発達、末寺も見える。なお、1301年(正安3)神崎(一の洲)関料が公家から春日社頭勅願読経料に寄進され、興福寺大乗院門跡に管領させた(講堂造営料というには誤解)。神崎関は興福寺領として浜崎荘ともども室町末期に至る。

執筆者: 永島福太郎

参考文献

  • 永島福太郎『奈良』 1963 吉川弘文館
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