いも
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  今北の枝村。本村集落の北西に位置した。1605年「慶長十年摂津国絵図」にはすでに今北村とならんでイモ村の表記があるが、この国絵図やのちの郷帳のいずれも芋の村高は今北に含まれている。1801年(享和元)には、年貢諸役算用や触・回状通達を独自に行なうなど、枝村としての独立性が一応認められた。その後も文化年間まで分村出入りが続いたが、完全な分村は実現しなかった。1838年(天保9)「巡見使通行御用の留」(『尼崎市史』第6巻)には、村高130.481石、家数16軒、人数100人とある。氏神は今北の大島神社(近世には牛頭天王社)。ほぼ現在の稲葉元町2丁目にあたる。

執筆者: 地域研究史料館

  芋村の地名由来については不明である。一般論としては、芋の農業栽培に由来する、あるいは鋳物師〔いもじ〕が居る鋳物師村に由来するなどといったことが考えられるが、現尼崎市域の芋村についてこれらいずれかの説を採るべき明確な根拠を現在のところ見出すことはできない。地名研究者の故・落合重信氏が著作(「地名からみた尼崎地域(続々)」『地域史研究』第7巻第2号掲載、のちに『地名研究のすすめ』-国書刊行会、昭和57年-に収録)のなかで鋳物師が芋に転訛したものであるとする説を提唱しており、鋳物師村と記した文書がある旨注記しているが、そういう記載の文書・記録の存在は確認されていない。

執筆者: apedia編集部

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