荒木村次
あらきむらつぐ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
生没年未詳
荒木村重の嫡男、新五郎と称した。1571年(元亀2)村重が茨木氏を白井河原(現茨木市)で倒した後、村重に続いて茨木城に入った模様。1576年(天正4)村重が石山本願寺包囲の目的で10か所に城塁を築いたとき、新五郎を尼崎城に配した。1578年9月30日津田宗及の茶会に出席した記録がある。同年10月17日本願寺の顕如(光佐)と盟約、そのときの光佐の起請文は村重・新五郎宛になっている。織田信長に反した村重は1579年9月2日有岡城を抜けて尼崎城に入った。1580年華熊城も攻められ、城主荒木志摩守親子と尼崎の荒木村重・新五郎父子は、示し合わせて安芸の毛利を頼って落ちて行った。のち新五郎は植田与助と称して秀吉に仕えた。1583年4月賤ヶ嶽の戦いに活躍したが負傷、のち病を得て没す。年は30歳とも36歳ともいわれている。
参考文献
- 『荒木村重史料』 1978 伊丹市